H27年11月19日 佐助史跡めぐり

お天気が心配された平日の朝、ありがたいことにほぼ快晴となり、少し肌寒いながらもお散歩にはちょうど良い気候でした。ご自身で鎌倉の史跡の研究をされている、長谷ご在住の大貫昭彦先生をお迎えし、午前10時に鎌倉中央図書館前に集合。集まってくださった参加者のみなさまは総勢30名ほどでした。平日の午前中ということで子ども会主催の行事ながらお子さんのご参加はゼロ、という珍しい状況ではありましたが、佐助でお仕事をされている方々もご参加くださり、この企画の興味深さがうかがえました。

図書館前集合 図書館前に集合。自己紹介もかねて。

天狗堂

 

 

 

早速出発です。

 

 

 

 

ご参加者全員が集合され、大貫先生のご紹介をおこなった後、ひとりひとりお名前をご紹介いただきました。その後早速、大谷美術館前の道より散策開始。ここでまず、大貫先生が電柱についてご説明くださいました。実は、私たちの住む佐助は、以前(住所名変更前)は、「佐助」という名前ではなかったということ。それがうかがえるのが、電柱に掲げられている文字だそう。電柱には、電力会社、電話会社それぞれが、場所の名前と番号を記した表札を掲げてあるのですが、例えば、大谷美術館前の電柱の電話会社の表札には「天狗堂」の文字が。その付近一帯がかつて「天狗堂」と呼ばれていたことがわかります。実際に、そう呼ばれるお堂が、現在御成山と呼ばれている山にあったようです。ちなみに、佐助二丁目付近は、以前は「梶原」と呼ばれていたそうで、電柱の表札にも「梶原」と書かれていました。天狗堂2

 

写真では見づらいですが、天狗堂の文字が。

 

 

 

大谷美術館

ご存知、大谷美術館。

残念ながら長期休館中です。

 

 

 

 

 

 

先生によると、大谷美術館の反対側の佐助自治会館のある近辺には、北条時盛邸があったのではないか、ということでした。鎌倉の地形を戦略的に見ると、西(藤沢)の方からの侵攻に対しては、二つの大きな自然な砦(大谷戸前の山と御成山)で守り、北は源氏山、東は朝比奈峠、とまさに自然の要塞として機能していたようです。さらに、西側の二つの砦の間に北条氏の分家である北条時盛の一族を置くことで、その守りをさらに強化したと考えられます。また、この分家の役割として、本家が担うことを嫌う汚れ役(将軍の幽閉や処刑など)も行っていたと言われています。先生からいただいた資料には、源氏三代の後、京から将軍として迎えられた幼い公家や親王が、成人すると都へ更迭された様子が、後深草院二条の著書「とはずがたり」に記されている、とあります。また、「吾妻鏡」にも、北条時盛邸についての記載があるようです。

時盛邸址を過ぎ、小道を抜けて鎌倉税務署へ。実はこちらの入口付近には、佐助近辺から出土した遺跡が数十点展示されているコーナーがあるのです。こちらを見てみると、鎌倉に住んでいた人々の暮らしがよくわかります。中でも意外だったのが、青磁器や白磁器、常滑焼などの出土品。当時は特に高級品であった陶器類が多数発見されていることから、質素なイメージのある鎌倉武士の暮らしが、実は想像するよりもはるかに華やかだったのではないか、と推測することができます。温石(おんじゃく)や懐炉など、寒い冬を快適に過ごすための工夫品も見られました。また、日常生活を送るための道具だけではなく、双六の駒や賽子(さいころ)などが見られることから、生活に余裕のある身分の家があったのではないか、と思われます。軒丸瓦も出土しており、大きな寺院が存在していたこともうかがえます。また、この時代の生活の豊かさとして、建長寺から出土した宴のお膳の遺物の例があります。武士の縁起担ぎとして、戦いの門出や祝い事の宴には、使い捨ての食器を使う、という風習があったようです。低い温度で焼いた安価な陶器を薄くなめした木の皮のランチョンマットに乗せ、多い場合は一度の宴で三膳ふるまったようです。そして宴の後は、それを重ねて穴を掘ったところに捨てる、ということをしていたようです。大貫先生は、現代でいう、使い捨て容器を使ったバーベキューのようなものですね、と面白い例えをしてくださいました。しかしその遺物が大量に残っていたことで、現代の私たちが、当時の人々の暮らしの様子を垣間見ることができるため、ありがたい風習だなと思わざるを得ません。また、鎌倉時代の文化は歴史としてはあまり注目されることはありませんが、京都で栄えた庭園文化は、実は鎌倉が発祥の地であり、京都の室町文化で花開いた、というのは本当に意外で、しかしながら歴史の流れとしては自然であると、納得させられました。また偶然の産物として、長い間建屋のない鎌倉大仏が、当時とほぼ同じ外見であることも、建屋がないために戦火を免れたからである、というのも面白い事実です(実際、奈良の大仏ではなく、鎌倉の大仏のみが、その全体としての国宝である、ということも誇らしいことです(奈良大仏は彫刻部門としてのみ))。

税務署前

事前にお願いして、税務署で遺物の見学。

遺物

なかなかのお宝に、先生のご説明にも熱がこもります。

※税務署の遺跡展示コーナーは常時閲覧可能ですが、土日祝日年末年始は税務署がお休みのため見学できず、また税務申告時期は繁忙期のため、展示コーナー自体をしまってしまうので、閲覧ご希望の方はご注意ください。

税務署を後にし、次は蓮華時址へ。実はこの蓮華寺、実際に所在した場所が不明で、現在石碑のある場所も、もともと石碑のあった場所から移動されたとのこと。詳細はやはり不明ですが、当初の名は悟真寺、その後蓮華寺となり、のちに材木座に移されて光明寺に改めたとされています。この時代の寺院の役割として、宗教的な意味だけでなく、幕府を守る一種の護衛の働きも兼ねていたのではないか、というのが大貫先生のお考えでした。よく考えてみると、宗教というのはどの世界を見ても政治的な舞台には必ず利用されてきたように思われます。そういった観点から遺跡や現存の建造物を見ていくのも面白いな、と思いました。

蓮華寺址

 

 

蓮華寺址。しかしながら、実際の場所は不明です。

 

 

 

 

 

そして蓮華寺から法務局の交差点を佐助稲荷神社方面へ。大貫先生によると佐助の界隈は、古くは縄文時代・弥生時代から人が住んでいたのだということです。実際に、(真偽は謎ですが)佐助稲荷のふもとの一角に、かつて縄文時代に水飲み場として使用されていたという遺跡が残っています。その時代は佐助の辺りまで海だったようで、人々は今の源氏山で山のものを採り、今よりも近くなっていた海からは、海のものを捕る、という生活をしていたのではないでしょうか。また、この時代から変わらず住み続けていた人々が、頼朝の旗揚げの際には地の利を生かした戦略をもって援助したのではないか、というのが大貫先生のご推測です。佐助稲荷神社には、「佐(すけ)」殿(頼朝の幼名)の枕元に佐助稲荷の神が立った、という伝説が説明された立札がありますが、その伝説も、実際は佐助の原住民の援助を指しているのではないか、と考えられます。当時の通信方法である狼煙(のろし)をあげることで、その先の稲村ケ崎、そして真鶴方面へと情報を伝達していった、と考えるととてもワクワクします。いつの時代も、いち早く情報を掴み、伝えることが勝機につながるのでしょうね。

参道

今はすっかり住宅街となってしまった参道。

sasukeinari

いつ見てもこの眺めは圧巻です。

水飲み場

謎の水飲み場。。。実は筆者の裏庭です。

時間の関係で銭洗弁財天までたどり着けませんでしたが、大貫先生に興味深いお話はまだまだ尽きないようでした。銭洗弁財天までの階段(今のトンネル側ではなく、佐助稲荷神社の手前から入る道が本来の参道でした)には、昔は占い小屋がひしめいていたことや、禁酒令の際、お酒を造るための甕(かめ)を軒先に出させ(酒造できないように甕を壊すため)、その数を数えたところ十万以上の世帯があったこと(現在とあまり変わらない人口で驚きました)など、私たちの知らない情報をたくさんお持ちの大貫先生には、佐助のみなさまのためにお忙しいお時間を割いていただき、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。またぜひ第二回を計画したいと思っています。自治会館自治会館2

さて、たくさん歩いた後は、佐助自治会館にて、子ども会役員が熱望した「ひなや」さんのおばんざい弁当をご参加者のみなさまと、大貫先生を囲んで、いただきました。自然の素材を生かしたとても優しい味のお料理の数々で、お腹も、そして知識欲も、満足した充実の一日でした。

 

ひなやおばんざい弁当

(子ども会 神田)

2015年12月4日 | カテゴリー : 子ども会 | 投稿者 : sasuke